2016年2月20日土曜日

公民館まつり、多喜二祭

今日は午前中に公民館まつりをまたまた娘と2人で回りました。


フラダンスを見たり、ハーモニカ演奏を見たり、お茶を頂き、娘の一番食いつきの良かったのはおもちゃ市。


三輪車や掃除機など一通り試し、買ったのはアンパンマンのおもちゃ(笑)

午後からは文化会館で開催された「神奈川 七沢 多喜二祭」に参加しました。

主催者の多喜二ゆかりの七沢を知らせ歴史と文学を広める会 会長 相原進さん

治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟神奈川県本部会長 宗形孝至さん

治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部会長 増本一彦さん

畑野君枝 日本共産党衆議院議員

ヴァイオリン演奏 早川愛美、クラリネット演奏 切通麻及、ソプラノ独唱 松本良江、ピアノ伴奏 井澤真理さんの演奏もありました。



最後は文芸評論家 早稲田大学他非常勤講師 楜沢健さん
「戦争と文学―『蟹工船』ブームから八年―」というテーマで講演がありました。

 プロレタリア文学は反戦文学であり、作家は学歴がない人、戦争で兵隊にとられていった人などが始まりであるということ。

 2008年の蟹工船がブームの時は、職場や労働者の置かれている環境に対して「あれが蟹工船だ」と言っていたが、それから八年、事態は悪化し、「今、自分たちのいるここがまさに蟹工船だ」という状況に来ているというお話がありました。
 それは安倍政権になり、強いものが弱いものを搾取する資本主義があり、憲法を無視した戦争法が通り、様々な場面で情報や言論、日本語に至るまで、国民を統制しようとしている現実が起きているということ。

3つの怖さがあるということをおっしゃっていました。
1つは、「労働が見えなくなった」
2つは、「資本主義の怖さが見えなくなった」
3つは、「日本がいかに怖い国であるのか」

 労働が見えなくなっているということは、教育の問題があるということ。大学では文学部でも労働法について教えることがない。大学は就職率を上げるためにキャリアのための大学となっており、そのためにアルバイトでも、社会に出てからも、ブラック企業やブラックバイトなどがあっても、知識がないために声を上げられない。また雇う側も労働法について知らないか、又は知ってても知らないふりをしているという状況のため、労働が見えなくなっているということ。

 社会に出るまでに、アルバイトなどで雇う側に「ごねてみる」ことを推奨していました(笑)
確かに、労働基準法守られていなければ、そこで声を上げる、抵抗するという経験は大事だと感じました。たしかに、社会に出てからいきなりというのは難しい面もありますしね。

 資本主義については、現在資本主義と比較するものが見えなくなっているとうこと。戦後は社会主義など資本主義と比較するものがあったが、今は資本主義の中で儲けている人が富の再分配するべきだという話になっている。しかし、根本的な問題として、企業の倫理感に任せることの危険性や、そもそも資本主義は強いものが弱いものから搾取するというのがその本質であり、それでいいのかという、他に比較するものが見えなくなっていること。

 日本については、実は日本はいつできたのかということがはっきりしていない国であり、歴史学者の中でも680年ごろではないかといわれている程度であるということ。始まりが分からないということは、それを変えることが出来ないという怖さ。
 現在でもそうですが、何かを統一するということは、戦前・戦中と同じで、それ以外はおかしいということになる怖さ。これは、日本語の標準語ということからみても、それが正しい日本語だとされるということはそれいがいの方言などは、違うということになりかねない。戦中はまさにそういう状況だった。
日本「にっぽん」「にほん」という言い方ひとつでも、統一されてはいない。しかし、無意識に色んな場面で統一した方向にもっていこうとしていたり、3.11以降、頑張ろうニッポン、や絆という言葉で日本人なら大丈夫ということが言われてきたが、それをいいことに、現在も続いている汚染水や放射能の問題に触れないようにされている現実...

 小林多喜二の作品は、擬音語、擬態語、方言がふんだんに使われており、それは統制することに対する反発、中央から離れている地域ほど、方言などがあり反権力的な表現としてあえて使っているということが分かりました。その最たるものが、ピジン日本語である。これは外国人が使うカタコトの日本語のことです。
外人が使うカタコトの日本語が出てくる場面があるが、カタコトだけど、権力者の言っているきれいな言葉よりも、理解ができ、その本質が分かるということの表現として使われているということでした。

 多喜二の作品もプロレタリア文学作品も、戦後まで違法なものであるとされていたため、完璧な形で原本が残っていることは少ないということでした。戦後もGHQによる検閲などで、都合の悪い部分は削除させられるということもおこなわれてきたということでした。

まとまりのない文章ですが、とにかく面白かったです。
プロレタリア文学を読みたくなった今日の講演でした。
議会が一区切り付いたら読んでみよう!

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